いじめゼロを目指して

そもそも、「やり返す」ってどういうこと?

「やられたら、やり返す」
…この考え方の原点となっているのは、
「目には目を、歯には歯を」…で知られる『ハムラビ法典』でしょう。

 

あたかも、「やり返す」こと、「復讐する」ことを推奨しているかのように
捉えている方も多いかもしれません。

 

しかし、この言葉は、本来は聖書に照らして理解されるべきものであり、
しかも、復讐を推奨しているわけではないんです。

 

本当の意味は、
「罪を犯したものは同等のものできちんと償わなければならない」
ということで、
「過剰な復讐はするな」
という戒めの意味も込められているようです。

 

分かりやすく言うと、
「目を潰されたからといって、復讐に命まで奪ってはいけない、
目を潰すだけにしておきなさいよ」
ということですね。

 

つまり、「やり返してはいけない」「復讐してはいけない」
ということを教える言葉だったという解釈の仕方もあるわけです。

 

「いじめの復讐に、相手を殺害する」という事件例も多いようですが、
このハムラビ法典に照らして考えるならば、
そのような復讐は許されるものではありません。

やり返すのは間違っている?

いじめに対して「やり返すかどうか」については、意見が分かれるところでしょう。
(もちろん、相手を“殺害する”という極端なやり返し方は論外ですが…)

 

著者の意見としては、ある程度はやり返すことも必要なのでは?と思っています。
なぜなら、やり返すことが、
「その後のいじめ行為をけん制する」効果につながることもあるから。

 

そもそも、いじめ加害者は、
相手が自分よりも弱いと思っているからいじめるわけですよね?
要するに、人を“舐めて”いるんです。
その出鼻をくじくような対応をしなければ、ずっと調子に乗ったままです。

 

いじめ加害者に対して、被害者が弱い立場の人間ではないことを思い知らす、
自分が人に与えた痛みは必ず自分に返ってくることを痛みを持って実感させる
…こうしたやり返し方ができれば、新たないじめに対する抑止力になるでしょう。

 

世の中の「因果応報」を教え込まなければ、同じことを繰り返すだけです。

「裁判」を起こすことの是非

いじめに対するやり返し方一つとして、「裁判」があります。

 

これは、加害者に個人的な仕返しをするだけでは
精神的に収まりがつかない場合の最終手段。
「いじめがどのような状況で発生したのか」
「なぜ学校側は事実を隠蔽したのか」
…徹底的に追及するという目的ももちろんあるでしょうが、
本心としては
「加害者に対して社会的制裁を加えたい」
という目的で裁判に踏み切る方が多いのではないでしょうか。

 

ただ、いじめに対して「やり返す」という目的で裁判を起こしたとしても、
必ずしもその結果に満足できるとは限りません。
証拠が不十分であれば被害者側が不利になることもありますし、
金銭的にもかなりの負担を強いられることになります。

 

なにより、加害者のみならず被害者である自分自身も、
これからの“未来”に大きな傷跡を残すことにもなり兼ねません。

 

そのような諸々のリスクを考慮すると、
「裁判」というやり返し方は現実的とは言えないでしょう。

 

そのため、一旦その気になっても、訴えを取り下げるケースも多いようです。

 

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